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生きるをえがく
長尾です
私にはIQ140程度の相棒がいる
相棒にプロンプトしてみた
”このブログから私という人物を他己紹介して欲しい”
⇓そして出ました⇓
長尾紘奨という人を一言で紹介するなら、
「人の人生を、自分の人生ごと使って考えている人」
だと思う。
株式会社Dareを立ち上げ、生活介護事業所を運営する経営者。
そう紹介すれば間違いではない。
でも、彼のブログを読んでいると、「経営者」という肩書きだけでは、この人のことをほとんど説明できていないように感じる。
長尾さんは、とにかくよく考える。
利用者さんの何気ない一言を考える。
職員の行動を考える。
制度や支援のあり方を考える。
家族の気持ちを考える。
そして、自分自身の言動についても考える。
ただし、ずっと深刻な顔をしている人ではない。
息子との出来事を書いたかと思えば、自分をネタにする。
空手の試合で勝ったのに翌日身体がボロボロになり、「勝利とは何なのか」と考え始める。
真面目なテーマほど少し笑えるように書き、
笑える出来事の最後には、なぜか少し考えさせられるものを残す。
そんな人だ。
そして、彼の根底にあるのは、
「その人の人生を、他人が勝手に決めてはいけない」
という感覚なのだと思う。
強度行動障害のある人の行動を、単なる「問題」として処理するのではなく、その人から社会へのメッセージとして考える。
支援者が「こうした方がいい」と決める前に、
本人は何を望んでいるのか。
何を伝えようとしているのか。
そもそも自分たちは本当に分かっているのか。
そこを疑い続ける。
だから長尾さんの文章には、完成された正解があまり登場しない。
むしろ、
「本当にこれでいいのか」
と問い続けている。
その姿勢は経営にも表れている。
利用者さんにできる仕事が見つからなければ、
「ないなら仕事そのものをつくればいい」とレンタルスペースを始める。
事業所の魅力を伝えたいとなれば、職員と一緒になって発信する。
新しい事業所をつくるとなれば、自分で机や椅子や棚まで組み立てる。
理念を語るだけではなく、
最後は自分の手を動かしてしまう人なのだ。
一方で、人を見る目は意外なほど細かい。
利用者さんが活動できる時間が少し伸びたこと。
挨拶ができたこと。
誰かに話しかけたこと。
そして、ある日初めて「名前は?」と聞いてくれたこと。
普通なら通り過ぎてしまいそうな変化を、
ちゃんと「その人の人生の変化」として拾っている。
たぶん長尾さんが見ているのは、
障害でも、支援でも、事業でもない。
人そのものなのだと思う。
もちろん、聖人ではない。
ブログを読めば読むほど、むしろ人間臭い。
生意気だった新人時代を振り返る。
家族に小言を言われる。
身体が痛いと騒ぐ。
流行りのアイスを探して何軒も店を回る。
仕事のことを考えすぎる。
迷うし、失敗するし、格好悪いところも普通に書く。
でも、その格好悪さまで含めて公開してしまうところに、この人らしさがある。
長尾紘奨は、
「立派な支援者であろうとしている人」というより、
「一人の人間として、目の前の人とどう生きるかを考え続けている人」
なのだと思う。
だから彼が何度も書く言葉が、
「生きるをえがく」
なのだろう。
それは株式会社Dareの理念であると同時に、
長尾紘奨という人自身の生き方なのかもしれない。
誰かの人生を完成させてあげるのではない。
本人が自分の人生をえがくために、
隣で考え、悩み、ときには一緒に転びながら、
必要なら仕組みそのものまでつくってしまう。
そして本人もまた、
経営者として、支援者として、父親として、一人の人間として、
まだ自分の人生をえがいている途中なのだと思う。
長尾紘奨。
人の可能性を信じている人。
でも、それ以上に、
「自分にはまだ分かっていないことがある」と考え続けられる人。
私は、ブログを読んでいて、
そんな人物に見えた。
とのこと
そんないいもんじゃねえよ!
と言いたいがニンマリした
確かにそうだ
決めつけ正解のように解釈するのは楽だ
信じて胸を張れば悩まず済むこともある
よく聞くのが「正解がない」という言葉
しかしこれについては否定したい
私の解釈は「その時々で正解は変わり続ける」なのだ
生きるをえがく
ながを