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日別アーカイブ: 2026年8月17日

私とは【西宮市 ラボ コア 生活介護 強度行動障害】

生きるをえがく

長尾です

 

私にはIQ140程度の相棒がいる

相棒にプロンプトしてみた

 

”このブログから私という人物を他己紹介して欲しい”

⇓そして出ました⇓

 

 

長尾紘奨という人を一言で紹介するなら、

「人の人生を、自分の人生ごと使って考えている人」

だと思う。

株式会社Dareを立ち上げ、生活介護事業所を運営する経営者。

そう紹介すれば間違いではない。

でも、彼のブログを読んでいると、「経営者」という肩書きだけでは、この人のことをほとんど説明できていないように感じる。

長尾さんは、とにかくよく考える。

利用者さんの何気ない一言を考える。
職員の行動を考える。
制度や支援のあり方を考える。
家族の気持ちを考える。
そして、自分自身の言動についても考える。

ただし、ずっと深刻な顔をしている人ではない。

息子との出来事を書いたかと思えば、自分をネタにする。
空手の試合で勝ったのに翌日身体がボロボロになり、「勝利とは何なのか」と考え始める。

真面目なテーマほど少し笑えるように書き、
笑える出来事の最後には、なぜか少し考えさせられるものを残す。

そんな人だ。

そして、彼の根底にあるのは、

「その人の人生を、他人が勝手に決めてはいけない」

という感覚なのだと思う。

強度行動障害のある人の行動を、単なる「問題」として処理するのではなく、その人から社会へのメッセージとして考える。

支援者が「こうした方がいい」と決める前に、
本人は何を望んでいるのか。
何を伝えようとしているのか。
そもそも自分たちは本当に分かっているのか。

そこを疑い続ける。

だから長尾さんの文章には、完成された正解があまり登場しない。

むしろ、

「本当にこれでいいのか」

と問い続けている。

その姿勢は経営にも表れている。

利用者さんにできる仕事が見つからなければ、
「ないなら仕事そのものをつくればいい」とレンタルスペースを始める。

事業所の魅力を伝えたいとなれば、職員と一緒になって発信する。

新しい事業所をつくるとなれば、自分で机や椅子や棚まで組み立てる。

理念を語るだけではなく、
最後は自分の手を動かしてしまう人なのだ。

一方で、人を見る目は意外なほど細かい。

利用者さんが活動できる時間が少し伸びたこと。
挨拶ができたこと。
誰かに話しかけたこと。
そして、ある日初めて「名前は?」と聞いてくれたこと。

普通なら通り過ぎてしまいそうな変化を、
ちゃんと「その人の人生の変化」として拾っている。

たぶん長尾さんが見ているのは、
障害でも、支援でも、事業でもない。

人そのものなのだと思う。

もちろん、聖人ではない。

ブログを読めば読むほど、むしろ人間臭い。

生意気だった新人時代を振り返る。
家族に小言を言われる。
身体が痛いと騒ぐ。
流行りのアイスを探して何軒も店を回る。
仕事のことを考えすぎる。

迷うし、失敗するし、格好悪いところも普通に書く。

でも、その格好悪さまで含めて公開してしまうところに、この人らしさがある。

長尾紘奨は、

「立派な支援者であろうとしている人」というより、
「一人の人間として、目の前の人とどう生きるかを考え続けている人」

なのだと思う。

だから彼が何度も書く言葉が、

「生きるをえがく」

なのだろう。

それは株式会社Dareの理念であると同時に、
長尾紘奨という人自身の生き方なのかもしれない。

誰かの人生を完成させてあげるのではない。

本人が自分の人生をえがくために、
隣で考え、悩み、ときには一緒に転びながら、
必要なら仕組みそのものまでつくってしまう。

そして本人もまた、
経営者として、支援者として、父親として、一人の人間として、

まだ自分の人生をえがいている途中なのだと思う。

長尾紘奨。

人の可能性を信じている人。

でも、それ以上に、

「自分にはまだ分かっていないことがある」と考え続けられる人。

私は、ブログを読んでいて、
そんな人物に見えた。

 

 

とのこと

そんないいもんじゃねえよ!

と言いたいがニンマリした

 

確かにそうだ

決めつけ正解のように解釈するのは楽だ

信じて胸を張れば悩まず済むこともある

 

よく聞くのが「正解がない」という言葉

しかしこれについては否定したい

 

私の解釈は「その時々で正解は変わり続ける」なのだ

 

 

生きるをえがく

 

 

ながを